自撮りは何を写すのかな

ふと。

小さい頃から写真を撮る文化がない。撮るというか撮られる文化。
写真も撮らない家庭だったから、ビデオなんてもってのほか。
日常を撮られて育つということは、自分の振る舞いに対して客観性が育つのかな。
などと思ったりした。
どんなに地下でもアイドルを希望する女の子が爆発的に増えてるのも、みんなアイドル的な振る舞いを小さな頃から親のカメラに向かってしているからだったりするのかな。
アイドルについてどうこう言いたいわけじゃなくて、己の動きに対して客観視できるのは大事な気がする。
普段アイドルとの接触でしか写真を撮らなくて、仕上がったものについて、思ってたんと違うってことは多い。
それ以上に接触中の自分を友達が撮ってくれた写真を見て愕然としてしまった。
自分が感じてるより人との距離が遠くて腰が引けていて、ひどく不格好。
私が撮った友達はナチュラルに腕に手を添えてにっこりと堂々とコミュニケーションをとっている。
これがアイドル(相手レスラーだけど)との接触じゃなくて、日常だったとしてもきっとこんな感じなんじゃないだろうか。
意識的に人との距離感は近くなりすぎないようにしてるんだけど、自分が他人を不快にさせないようにとっている距離感は他人からすると不快に感じる距離かもしれない。
仲良くなりたくないと思わせてる可能性を考えてしまわなくはない。
日常もだけど、あんな挙動不審感が全面的に出てると仕事でもよくないよなぁと思う。
こいつに頼んで大丈夫かよ、と思わせるだろう。
実際大体の場面において自信ないし。
客観的に自分を見ることを意識しなきゃ。
などと思うと同時に、自撮りって究極に客観性のない世界で、主観に基づいて撮られたものということなのかな、と思ってみたりする。
自撮りの撮り方は興味深い。
他撮りと自撮りで全然違う顔の子も多い。
そこのギャップの大きさは客観性と主観性のギャップになるのかな。
そんなことを考えてみたけれども、出来ることなら1日中自分を撮ってみたい。撮られてみたい。
多分死にたくなるけど。
実際撮られたくないし、そんなの無理だけど、撮られているつもりで生活をすると自堕落さは減るのかな。
多分死にたくなるけど。
本当はどうにかして猫になりたいんだけどなー。
猫になれないからなー。
もう30年も生きててこんなに外見に対して客観性がないなんて、本当に恥ずかしい。
しかし猫になりたい。