それは神秘か構造の欠陥か。

新宿MIRANO座で「少女都市からの呼び声」という舞台を見た。唐十郎作のいわゆるアングラ系作品となる。感想をここに書いておこうかなと思う。

主題ではないものの、男性にとって永遠に女性の体の構造というのは神秘で興味深いものなんだろうなぁとしみじみと感じた。いつの時代も正しく理解することなく神秘として扱い、そこに固執せずにいられないことの幼稚さを冷ややかに受け止めつつ、作中のエピソードがひとつ自分にとって遠くない話だった部分があり、どうしても残しておきたくなった。

主人公の妹(という存在自体が概念であるかもしれないが)はガラス工場を取り仕切る夫によって「ガラスの子宮」を作り込まれていた。まだ完全なものではないが、作り途中で兄によってその工場から救い出されるという方向に進む。妻の体をガラスの作品にしようとした夫は、ガラスの子宮になることによって「母親から最も遠い存在になれる」というようなことを言っていた。

突拍子もない話だと多くの人が受け止めるだろうけれども、私自身は病気にかこつけて、自らの意思で子宮を全摘したので、あながちその感覚も分からなくもない。

大きな筋腫がなければ全摘をするという選択肢が生まれなかったが、自分にとってその選択肢がうまれたことは「チャンス」だった。男性が女性性を永遠のものにするために子宮をガラスにするということはとんでもないことではあるが、自らの意思で子宮から解放されたということも、多くの人からすればとんでもないことないことなのかもしれないな、とぼんやりと思った。アングラな思想を実行したということになるんだろうか。普通の人間ですみたいなツラして暮らしているが狂ったことしてると思われるのだろうか。

10歳前後からはじまりそこから40年くらいの長い間、ずっと25日周期くらいで内臓の一部を排泄し続けるなんていう構造は欠陥だと思っているし、それにともなうPMSで心身共に不安定になる期間を含めたら人生においてあまりにも不快な時間が長すぎる。どうして嫡子願望もないのにそんな内臓を抱え続け、世話をし続けないといけないのか、という思考になるくらいにはPMSで苦しんできた。

その証明がこのブログだ。2019年に手術をし、解放されることが決まってからここに鬱々とした気持ちで何かを書かずにいられないようなメンタルになることがほとんどなかった。*1読み返して懐かしい気持ちになるくらい、この鬱々とした感情は過去のものとなった。

生理という現象から解放され、本当に1mmも後悔がない。術後最初に購入した洋服は白のボトムスだった。もういつでも白いボトムスを履ける。楽しい予定に生理が被ることを憂鬱に思うこともない。大きな手術痕は残るが、得られた快適さはそんなものの比ではない。

筋腫という病気によって「得られたもの」だけど、これがひとつの選択肢になればいいのにくらいのことを思っている。そもそも嫡子願望がない人、希望の人数の子供を授かりもう妊娠を望まない人もいる。そういう人にとっての選択肢としても倫理的に許されないことなんだろうか。そんなことをあとあとぼんやりと考えてしまう舞台だった。そんなことをぼんやりと考えさせる内容の舞台では多分なかったんだけど。

*1:離婚を決める前はそれなりに鬱々としていたらしく下書きはまぁまぁあった

オトコとオンナと子供と家族と他人

たぶん、日本には人間という生き物のなかで、パッと見で「オンナ」が嫌いな女性という人種が一定量いる。

パッと見で異性に媚びてる、女性であることを利用してると判断したオンナに対して異様に厳しく、嫌悪感を隠すこともない。

そして、そういうオンナをもてはやすようなオトコに対しても嫌悪感をもつ。外見がよくない人はもちろん、外見がよくても「残念」と言われることが多い。

 

某メンバーの件で、いろんな意見が飛び交っていてまぁ当然なんだけど、被害届を出した側に対しても心ない言葉をそこらに撒く人の半数以上は前述の人種だと思っている。

 

少し前にmetooに乗じたコラムニストが叩かれたりしたのも同じように感じている。

姿を見せる必要のないオンラインではより同性間のハラスメントは過激になる。

 

もちろんこのときのハラスメントについては「オンナゴトキが」という男性からの反発も大きかったと思うけれど。

 

わたしは女子アイドルが好きだし、身の回りにもそういう同性の友人が多いから、かわいい子も女の子としての武器を磨く子も好きだという子が多い。

でも一定量いる。

言い切れるのは自分の母親がその人種だからだ。

幼少期からメディアに出るオンナに対して嫌悪感を隠すことがなかったし、父親がテレビを見ながら女性タレントに言及するだけで、食卓の空気が冷え固まるような家庭だった。

母親がそうなった理由は、家庭を省みず仕事と外のオンナに夢中だった夫のせいだ、というのがきっと彼女の主張。

 

そういう家庭のなかで育った我が兄妹は、家庭のなかでオトコらしさやオンナらしさを出さないようにずっと育ったと思う。

もう40手前の兄は未だにいわゆる浮いた話を全く見せることがない。

 

 

母はとにかく子供がオンナになることを嫌がっていた。

 親の嫌がる何かになるという恐怖はきっとあったし、「自分は人間ではないのかもしれない、どうしたら人間になれるのか」という感情もこれに繋がっているのかもしれない。

 

なのにわたしは、何故か異常に性的な需要があった時期がある。性的な捌け口としての需要。

小学校1年から中学校の間。

何故かわからないけど、小学校1年入学すぐから同じクラスだった3年の間、ひとりの同級生からわりと執拗ないたずらを受けていた。小学3年でも、そういう傾向の子はふたりになったら襲ってくるしトイレに逃げ込むことになる。高学年の頃もなんかいろいろある。

中学に入ってからは毎日痴漢列車に乗っていたし、駅でお兄さんに声かけられいきなり肩を組まれ連れ回されて雑居ビルに、みたいなこともある。

高校に入ってからはすっかりそういうこともなくなったけど、満員電車でスカートをティッシュがわりにされたことは未だに人生で1番の屈辱ではある。

その時期に普通にモテたことはない。それ以降もモテがあるわけでもないけど、ただひたすらそういうことがあるだけだった。

もちろん親に相談したこともないけど、連れ回された話をラジオのネタにしようと書いてたものを勝手に机をあさって読んで「これは事実なのか。こんな作り話作る意味分からないし事実なんだろうけど、なんで言わなかったのか。」と母親にひどく怒られた。スカートを汚されたときは言うしかなかった。淡々と学校で制服借りれてよかったと話したら、淡々と受け止めていた記憶がある。どちらも母親のなかで処理されて、父親には共有されていなかったと思う。

日常でも痴漢くらいは普段でも軽くネタにするけど、痴漢以外の話は滅多にしない。 

 

生理も早い方だった。学校で説明を受ける前だったし、よくわからながら迎えたその事態に、自分は絶望した覚えがある。親に知られる恐怖で家出を考えたくらい。自分で何も言わずにいたので怒られた。当たり前の話でもある。

 

 

自分のことを書いてmetoo的なことをしたいわけじゃない。でも、いろんな感情が沸きすぎて整理ができなかったから書いている。

 

 なにがしかそういった経験がある人にとって、その記憶がなくなることはないし、何かあれば、いろんなことを思い出す。

防ぐ手段も何かあったかもしれない、でも誰かに助けを求めるなんて実際難しい。その場で頭が明瞭に動くようになるまでには相当な回数同じことがなければ無理だと思う。痴漢に対しては日常だったから最後には刃を抜いたカッターを持ち歩いて痴漢してる手に当ててカチカチと刃を出すような振りをして遊ぶ余裕があったけど、まぁそんなの日常である方がおかしいはず。

出来事があり得ないことであればあるほど、信じてもらえる気もしないし、何でお前が?と言われるような容姿であればなおのこと言えない。

オンナに嫌悪感を抱く人にも、オンナゴトキという感覚の人にも知られてはいけない。汚いものを見る目で見られるだけ。

 

こういうことは、特別な人にだけあることではなくて、大人から子供だけではなくて、子供と子供でも、大人と大人でも、家族と家族でも、オトコとオトコでも、オンナとオンナでも多分ある。

 ただ、こういうことがあれど口にしたらもう「そういうことをされるような人間」として見られるようになる。かわいそうな人という扱いになる場合もある。

自分の経験はなんだかんだ逃げられているし、いきなり色を失うようなショッキングなことでもないけれど、ただ、何もなかったようにはならない。この手の経験のほとんどのことを、長年の友人にも話してはいない。多感な時期に気軽に口に出来ることではない。

もうずっとずっと昔のことで、20年くらいインターネットをしていても面白おかしく詳細を書くほどの勇気は出ないくらいだから、簡単に気持ちの処理できない人はたくさんいるだろう。処理ができていない人が、被害を公表する人に対して嫌悪感を抱くこともあるのかな…「つらい思いをしたのは自分だけだと思うな」という感情になる可能性もある気がする。

 

どんな立場であれ、自分の欲や衝動を身勝手に人にぶつけて人生を傷つけることを正当化していいことはない。それが、ほんの出来心の軽いものであったとしても。

 ただ、爆発的な欲を持って生まれてきてしまう人もいる。社会的に許されざる欲を持って生まれてしまったり、許されざるものに興味をつよい関心を持ってしまった場合は、残念だけど、社会のなかで生きていくためにはその欲と折り合うための努力を続けなくてはいけない。多分、世の中の何割かの人はずっと爆発しそうな自分の欲を飼い慣らしながら生きている。多様性を認める世の中に向かっていても、倫理的に許されざる欲は許されざる欲のままでいるしかない。

 

今回の件は、きっと、そういう欲というよりは、別の心の弱さと向き合えなかったことが、きっと問題な気はする。

自分の心の弱さと向き合えない時に、周囲の心配する声が、周囲の理解のなさに感じて勝手に孤独を深めてしまうことはよくある。孤独な心の隙間を埋めるように、より酒の快楽に依存していく。そしていろんなブレーキが壊れてしまっていても気づかない。どんどん真っ当な判断が出来る状態でいられる時間が短くなっていてもそれに気付けない。破壊的な衝動が強くなっていく。身近な人の怒りは、きっとそこへの怒りと空しさからくるものもあるような気がする。

 

わたしは、いつからか「性別を返上したい」とずっと思っている。

毎月の生理に伴うPMSから生理痛が煩わしいのもあるけど、それだけでもない。

あまりにいろんなことがあるし、ささやかなことでも性別なんてなければいい、と思う。

必要な人は必要でいい、不要な人は不要でいい。

子供を産む、ということも、人間を育てるということも、性と繋がってなければその意思を放棄しなかったかもしれない。 

 いろんなことがあってもオンナとしての欲がある自分が気持ち悪くて、どこかで衝動的に踏み外していたら本当に全く違う生き方をしていたかもしれないという恐ろしさも、全てまとめてなくしたかった。

もはやオンナとして認められたい欲はなく、ヲタクとして一方的な愛情を傾けることで消化されているので穏やかだけれど、それができるようになる前はいろんな感情にのまれることも多かった。

 その人の思うオトコとして、オンナとして、人間として、堂々と生きている人は美しい。

 

ひとつの価値観としての、ただのひとりごと。

踏み外せばすぐに手元からなくなる日常をみんな必死に生きてる。

やっぱり現実はどんなフィクションより残酷だしいろんなことがあるんだ。

コミュニケーションにおけるプロレス論みたいなもの

わりとバラエティーをよく見る。ネタ番組も見ないわけではない。アイドルのバラエティー番組も大好きだ。

「悪口はエンターテイメントであるべきでしょ?」って去年イベントでたまたま並んでいた時に近くの人が会社の人の愚痴を言っていてその時の話でひとりの人が言った言葉だけど、すごくなるほどと思った。

どんな毒舌で相手を罵ったとしても最後に自分がエヘヘって笑っていれば許されるみたいなことは前にどこかで有吉さんも言ってたこと。*1

度がすぎると違ってくるんだけど、お笑いでのいじりと悪口の差もこれであって、いじりにはただボケる以上のユーモアが必要だと思っていて、タレントさんが毒舌キャラをやろうとしてだいたい好感度だけ下がって残念な感じになるのはユーモアが足らないからだと思っている。何かを罵る・貶める言葉こそ品のある言葉かせめて語感のよさがある方がいい。

あともうひとつプロレス的な受身が取れることがとても大事だと思っていて、相手から攻撃を返された時に、それを避けずに受け止めることが出来るかだと思う。まさにプロレスは受けの美学で、相手の攻撃を受けて受けて、ダメージをちゃんと受けて、その上で、自分の技を相手にくらわせる。プロレスで避けていいのはヒールだけだ。ヒールが技を避けて相手をバカにすることでブーイングを受けるのも様式美。常にベビーが応援される訳でもなく、ヒールに対してブーイングじゃなくていいぞいいぞ!という声があがるのもプロレス。

お笑いにおける悪口が成り立つのは基本的にそういう受身がとれるから。ツッコミという役割の人ほど自分もツッコまれる天然さがあることが多い。受身が取れる人はどうしようもないと言われるような人でも生き残っていける。*2受身が取れず番組のなかであっても苛立ちを見せるだけような人はなかなか生き残っていけない。*3苛立ちを笑いに変えられればまだ生き残っていける。*4そういう意味では指原さんはめちゃめちゃプロレスがうまい。受けきったうえでちゃんと返せる。マツコだってめちゃめちゃプロレスがうまい。自分への返しがきたらちゃんと受けきる。下手な攻撃にはつきあわないところもちゃんとヒールだ。

世にいう毒舌キャラもそもそもエンターテイメントとして言葉を選べる人とそうでない人、自分へそれを返された時に受け止めて笑いにできない人とではやっぱり空気の変わり方が違う。

アイドル性ともリンクするけど、それを持ってない人が多いから芸人さんがお金を稼げるんだとは思う。

何でも面白くすれば何でも許されるなんてこともないし、面白いと自負している人が万人から面白いと思われるわけもないけど、でも何のユーモアもないよりある方がいい。

体を張って笑いを取りたいとは思わないけど、死ぬこと以外は全部笑いのネタになると思いたい。相手によっては笑ってくれないよな…と思うことはあまり出さないけど、人生においてはそういうことはたくさんある。

 

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これ去年の年末から書いてる持論なんだけど、最近またちょっと変わってきたというか、持論の展開を変えたのでタイトルもプロレスをベースにした。

コミュニケーションスタンスとして、プロレス型と格闘技型があるのではないかと思い至った。

プロレスは前述の通り受け身が大切で、双方の技の応酬があり、ケガをさせないことが前提。それに対していわゆる総合格闘技はまず先手必勝、相手からダウンを奪うためには相手の攻撃に付き合う美学もないし、秒殺こそ強さであり美しさくらいの感覚というイメージ。*5

プロレスは興行として年間100回以上行われていて、いろんな地方へ行き興行を行うことで団体としてお金を得ているので、対戦相手にケガをさせることは基本的にご法度。もちろんケガすることもあるけど、ケガをさせようとしてはいけない。そういう心持ちでリングに立つ。*6

日本には明確なルールはないけど、アメリカのWWEとかはめちゃめちゃルールが厳しい。

プロレスの歴史の話になると長くなるので置いといて、とりあえずいわゆる総合格闘技にはケガをさせないという発想は多分なくて、それがガチなファイトスタイルとされているんだと思う。

なんでそれが成り立つかというと、興行自体が頻繁じゃないし、団体としての枠でやっていないというのが大きい気がする。団体として興行が成り立たなくなるのは損害だけど、そういう営業スタイルじゃないなら別。もちろんケガ推奨でもないだろうし、大きなイベント前にケガをしたらいろんなアレコレあるんだろうけど。それはきっと個人に請求される。

 

受け身が取れる取れないではなくて、ファイトスタイルとして違うんじゃないかと思った。

受けとめずにガードをする。ガードをしてすかさず攻撃に転じる。

軽い気持ちで仕掛けてきた人に対して、ユーモアゼロのトーンで畳み掛けていく人はきっと格闘技スタイルなんじゃないかなと。

インターネットの世界でもよく見ること。

あぁこの人は格闘技スタイルか…と認識すれば対応がしやすくなるのかな…まぁその場合の対応って何になるかというとリングにあがらないということになるので、状況によっては難しい。格闘技型に対してもプロレスで勝てたら「1番つえぇのはプロレスなんだよ!」*7って言えるけど、継続的に顔を付き合わせる距離感でそれはきびしい。

 

 会社とか組織でのコミュニケーションで考えると、基本的には興行を続けていくためにケガをさせない前提のプロレス的な方がいいと思うんだけどプロレスを強いる権利は誰にもない。でもチームの人の特性を把握してコミュニケーションしていく方が円滑な気がしてるんです、と会社の人に言いたいけどプロレスの話から説明するのが大変なのでブログにまとめて満足するだけ、が現実でした。

 

もちろんプロレスラーにも受け身が下手な人もいるのでプロレスのつもりで受け身じゃなくてガードをしてる人もいるんだろうし、ユーモアのつもりの攻撃がユーモアとして成り立ってないだけのこともある気がするしそもそもユーモアの判断がまぁ絶対的な指標を作れないものだから難しい。新喜劇が好きか嫌いかだって別れるし、プロレスだって新日派とDDT派で相容れないものがあったりするし。これもまた宗教戦争になってしまうんだよなぁ…世界平和って難しい。

 

*1:たぶん怒り新党とか

*2:上島竜兵出川哲朗ライン

*3:フルポンの村上さんとか

*4:ウーマンの村上さんとか三四郎の小宮とかって思ったけどちゃんと受け止めてるんだよね。ちゃんと受け身取ってる

*5:プロレス出身の人のファイトスタイルは多少違うのかもしれないけど

*6:これがヒールが頭よくないと出来ないと言われるところ

*7:cv.中邑真輔

別れのはなし。

父の命日です。

心臓の動きが極端に弱くになると人間の内臓は血が十分に行き届かなくなりどんどんと機能低下をしていく。

当たり前のように体内の内臓で行われている消化や循環を、機械に頼ろうとするととてつもなく大がかりな、臓器の数倍の大きさの機械が必要になる。そして、その機械を通すと血液の中の成分はすぐに壊れてしまいその機能を果たせなくなり、絶えず輸血をし続けることになる。

父の闘病期間は約3週間だけど、その間に血は何度も完全に入れ替わっていたと思う。

祖父は何度めかの脳内出血で倒れたあと、寝たきりでほぼ意識はないながら4年くらいは生きていた。

人体の生命維持は心臓と内臓によって保たれているんだな…と機械に囲まれた父の姿を眺めながらとても実感した。

フル装備の患者はなかなかいないので…ということで、研修医などが父を囲んで病院の資料用に写真を撮られたということも私の人を選ぶ鉄板ネタのひとつ。

アンナチュラルの1話で「9割は名もなき毒」みたいな台詞があったと思うんだけど、ウイルスもそう。インフルエンザみたいに特定されて、薬があるウイルスなんてほんの一握りで、ほとんどのウイルスは名もなきウイルス。1話を見ていて「ウイルス性の心筋炎だけど、特定は出来る菌ではないと思うし、特定してもどうにかなる段階ではないです」と最初の病院で言われたことを思い出した。

予防注射などで備えられるものは少なくて、対処できるものも少なくて、目には見えない。母は中国で…といっていたけど、それも全くわからない。

 

人生観を変えるのはやっぱり別れが大きい。

父が人工心肺を取り付けた後、家に帰って「どうなったとしても、もう日常に戻ることはない」ということに絶望して泣いたけど、死後それ以上に泣いたことはない。

日常生活がどれだけ尊いものか、五体満足で生きられていることがどれだけ奇跡的なことか、みたいなことを痛感したし、某さんま氏の座右の銘「生きてるだけで丸儲け」という言葉が理解できるようになった。

とはいえ、すぐにいろんなことが整理できたわけでもないし、それから数年間は自分自身のだらしなさにクソみたいな生活をしてしまったし、でもそのクソみたいな生活もいい経験だった気がするし、でも本当に年々生きてて楽しいなと思うことが増えてきた。

しかし、あと16年生きたら父の年齢になるのか…と思うとすごく不思議だ…

多分あっという間なのかな。その16年の間にいろんなことあるだろうけど、16年は生きていられたらいいな。

 

2017年のことから2018年のこと

ざっくりといえば、2017年の振り返りと2018年の目標とかを書き残したい、と書き出したのが2月なんですけど、2月も終わってしまった…。

 

あまり明確に意識してはいなかったけど、多分2017年は「それでもやるかやらないか、ならやるを選ぶ」を少し増やした。

K-POPを聞く、正社員になる、コーディングをメインの仕事にする、髪を染める、髪型を変える、海外へ行く…

些細だけど、些細なことを結構沢山したと思う。

それでもやるかやらないか、でやらないをずっと選んでいて、自分のためにそれをしてきたけど、それによって自分のなかの自尊心をもて余すことがある。自分のなかの、こうじゃなきゃいけない、と、自分のなかのこうじゃなくなりたい、のバランスというか。自分を1番縛っているのは自分だな、と感じる。

やれなくはないけどやらない、よりやれないかもしれないけどやる方がやっぱり得るものは多い。

それでもやるかやらないかで、やるを選び続けることで得られた自信は次のステージを見せてくれるということはシゲアキ先生を見ていてすごく感じたこと。

やったらやれることかもしれないなら、やってみる。少しずつ。

今年はきっと、それが雪だるま式に大きくなる。仕事面で1月からすごく感じている。

どんどんと仕事の幅は広がっているけど、あまりパニックにはなってない。対処法をいくつか考えることができる。相談すればするするといくことも増えた。出来ないことが出来るようになるという達成感は好きだ。

やるかやらないか、というところで、アウトプットも増やしたい。やっぱり自分の受けた印象を言葉にしていくのが好きだ。この感覚をどういう言葉にするのが最適かとか考えるのが好きだ。当たり前だけど自分の言葉が好きだ。自分の自分が好きなところを大事にする。

本当に30代は楽しいことが多くて毎年あっという間に終わる。基本的には今年もそうであればいい。 穏やかに楽しく笑う人であろう。

ただただ悲しい

人との別れにはだいぶ慣れてきてはいても、やはり自分でそれを選択された場合には慣れない。

ましてや数ヶ月前に東京ドームでコンサートを見ていた人なんて。

ソロのライブをほんとうに少し前に開催していたのに。

来年は5人のステージを見たいなと思っていたのに。

 

残された人が悲しむからそんな選択はしてはいけない、という考え方は好きじゃない。

残される人を悲しませないために生きろというのは、ずいぶんと暴論だと思う。

だから、その選択肢は違法とされない限り、絶対にしてはいけないとも言えないと思っている。

それもひとつの選択肢だし、ひとつの権利。

選択をしたからといっても、意思だけでは達成できない。

 

ファンだけでなく、その選択の前では他人はいつだって無力だ。

その選択に至るつらい気持ちを代わってあげることは誰にも出来ない。

いつだってその選択肢は手の届くところにある。

だから生きられるという考え方もある。

 

もちろん、残された側がつらいと思い悲しむことも当然の権利。

彼のことを沢山知らなくても、本当に悲しいと思う。

 

スケジュールがあるから大丈夫なんてこともない。

ただ毎日、生きていることに感謝をするしかない。

 好きな人の日々の選択肢にその選択が現れないことを祈るしかない。

 

消えたいなら生きねばならぬ

多分PMSに仕事のストレスでとてもメンタルがへらへらしている。

とてもメンタルがへらへらしているので、とてもすごいことに気がついた。

未だにメンタルがへらへらすると、消えたいなーと思う。

消失、あるは気化したい。

存在がまるまるなかったことになって、周囲の人の日常が続けばいいと思う。

だけど、それは基本的には不可能なことだ。

失踪しても死んでも、周囲の人の記憶に生きていたときのことが色濃く残るから。

気づいてしまった。

日常のなかで消失するには、大病せず事故事件に巻き込まれず、ただ平和に健康に毎日を生き続けることが1番だということ。

ただ大きな音をたてずに日常のなかで生きていることでしか、存在が透明に近づくことは不可能だ。

とくに印象が薄い人の記憶は簡単に薄れる。そのまま何もなければどんどん薄れる。

それがきっと一番透明。

楽に透明になんてなれない。気化なんてできない。

優しくない世界だ。

 

何より、何十年も毎月のように内臓の一部を循環のために排出しなくてはならない人体の構造が優しくない。