消えたいなら生きねばならぬ

多分PMSに仕事のストレスでとてもメンタルがへらへらしている。

とてもメンタルがへらへらしているので、とてもすごいことに気がついた。

未だにメンタルがへらへらすると、消えたいなーと思う。

消失、あるは気化したい。

存在がまるまるなかったことになって、周囲の人の日常が続けばいいと思う。

だけど、それは基本的には不可能なことだ。

失踪しても死んでも、周囲の人の記憶に生きていたときのことが色濃く残るから。

気づいてしまった。

日常のなかで消失するには、大病せず事故事件に巻き込まれず、ただ平和に健康に毎日を生き続けることが1番だということ。

ただ大きな音をたてずに日常のなかで生きていることでしか、存在が透明に近づくことは不可能だ。

とくに印象が薄い人の記憶は簡単に薄れる。そのまま何もなければどんどん薄れる。

それがきっと一番透明。

楽に透明になんてなれない。気化なんてできない。

優しくない世界だ。

 

何より、何十年も毎月のように内臓の一部を循環のために排出しなくてはならない人体の構造が優しくない。

クズ担をやめようと思った理由。

クズしか愛せないといい続けてきたのに大倉さんを過去の男に据えることに決めた理由としては、自分のクズ好きは自分のクズさを肯定するためのものであるということにつらくなったから。

どういう嗜好であれ、好みの異性なんていうのは結局自己肯定のためのものなんだろうと思うけど、楽さより、ちょっと背筋伸ばして己を正していこうという気持ちになってしまった。

ハタチになって半年くらいの男の子を見ていて、真っ正面から努力して輝く彼を、真っ正面から受け止めて応援できる自分になってみるのもアリなのかも…って思ってしまった。

そのうちやっぱり無理ーってクズを担当しだすかもしれないけど。

ちょっとそういう、自分のお試しみたいなところが強かったりする。

とりあえず、コタソン見習って整理整頓、まめな掃除から始めます…

心地がよい場所があることは幸せだと思う。

このブログがとても、心地よい。
アクセス数は更新をしても1日10~20程度。
そのアクセス数なのにスターもらえるってすごいな!って思うし、なんとなく共感してくれる人しか見てないことが心地よい。

自分の外見は好きじゃないし、好きになれるように磨くこともしていないから客観的に見つめる気になれないけど、自分の思考は見つめ直すのが楽しい。
このブログはアクセスの半分は自分かな?と思うくらいよく見直してる。

たくさんの人の前で大きな声で喋ることが好きじゃない。出来ることなら顔の見える範囲で、声を張り上げなくても聞こえる範囲で表情を見ながら話したい。

そんなこと思ってるけど、大きな声で堂々と話せる人が羨ましいのも確か。
いろんなことを気にしなくなっているけど、それでも怖いと同時に、影響力を持てる人が羨ましい。

好きなものについて、大きな声で魅力を訴えたい気持ちはあるんだけど、そうされることで冷める人がいるのもわかっている。
好きなものを楽しく好きでいるための距離感を意識しなくちゃと思う。
自分の思い通りにならないことをふざけるなとは言いたくない。
ただでも、好きなものに関わる人には誠意を感じたいと思う。
グレーのなかでも、できるだけ白に近いところを感じさせてほしい。

たまに、15年以上ネットにいて、大きく叩かれたりした記憶がないことは幸せだなと思う。
実は叩かれてたのかもしれないけど、気づいてないなら幸せだ。
インターネットこそ大きな声が影響力が強いし、同時に大きな声は無条件に一定量叩かれる。
大きな声じゃなきゃ喋る意味はないなんて思わないし、適正なボリュームで、ある程度理解しあえる距離感でおしゃべりを続けたい。

好きなものを好きと言いたいし、微妙だなと思うものは微妙だなと言いたい。

流行りのフリマアプリをはじめました。

新しいサービスに対してアトノリなタイプなので、やっとこ始めたんですが、面白い。
出品されているものを眺めるだけでとても楽しい。
写真の撮り方、値段のつけ方、品名の書き方、人の「手放したいモノ」の価値観が秒単位で溢れてて本当に面白い。
自分の生活では触れない価値観にたくさん触れられるってことだけでも、とてもいい暇潰しになる。
どうせ売るならちょっとでも高くという思考で謎なくらい高値で出してる人もいるし、送料でマイナスなのでは?っていう人もいる。
そしてそれなりのペースで入るアヤシゲなアイテム。ダイエットサプリとか。

出品してみると、秒単位で売れるものも、数日音沙汰なくポンと売れるものもある。
需要ないかなぁと思ったものでも売れることがあるから面白い。

かんじゃにさん辺りは販売されていたグッズにはさほど需要はないけど、手作りされたグッズには需要があるように見えて面白い。ある程度以上の規模になると、そういう現象が起きる気がする。公式グッズや写真が当たり前になると、ファンの愛が感じられるものをもつのがイイってなるのかな?

需要がありそうなCDやらなんやらを売ろうとしたときに断念したのは名前入りのサインの入ったもの。本でもCDでもホイホイ手放されたくない人は、手間でも購入者の名前入りのサインをいれる方がいいのかもね。

オチもなにもないんだけど、年内にでもアプリの悪用が問題になってシステムがどんどん変えられたりしそうだし、そういう流れも含めて興味深く眺めていたいなーという気持ち。

完璧主義者の完璧の落としどころが気になる。

私は完璧主義とは真逆の人間で、むしろ物事を白黒に割りきることも何かキッチリ収めたりキッチリドアを閉めることもあまり好きじゃない。実家にいるときから部屋のドアを中途半端に閉めること(ガチャンと言わせないこと)に対して気持ち悪がられる。

完璧なものを求めている人、白か黒か、0か100か、それでしかものを見れない!そうじゃないと気持ちが悪い人がいる。
その人にとっての境界が気になる。
この世の中のどこも完璧なものなんてないと思ってしまうから。
学生時代に色の勉強をして、製造業に就いて、完璧なもの、完全なもの、絶対的なものなんてないと気づいてしまった。
自然界には正円も直角も直線もない。人の手で作ったものは人の手による精度以上の物にはならない。
自分が見ている全てのもの色は光の反射によるものなわけで、光源が変われば色は変わる。光源の角度が変わっても強さが変わっても全て変わる。人間の個体それぞれの感覚も違う。その上で感覚的補正がなければ全ての色合いはその時にしか実在しないはず。
色の勉強をして、いかに感覚的補正によって色を見ているかということに衝撃を受けた。自分が見ている色を他の人の感覚でどう見えているかは確かめようがない。
製造業に就いて、世の中の工業製品は3~8%程度の不良が出ることを予め計算に入れて原価を出すことを知る。
同じ工場で作るものでも、朝の動き出し時と1日稼動した夜では仕上がりが違う。夏と冬でも全然違う。
コンピューターでも同じだと思う。バグを永久にゼロにすることはできないはず。
自分たちが幼少から使ってきた定規だって、プラスチック製のモノなら気温で結構サイズが伸縮するし印刷の精度なんて大したものではない。
モノを知れば知るほど、完璧なものってなんだろうって思う。
でも、限りなく完璧なものを求めなくてはいけないのは確かにある。
医療にまつわる行為、用具、移動手段に関わる行為、乗り物、レール。
自分にはそのものに命が直接的にかかわるモノを作ったり、その行為をする人が請け負うプレッシャーが想像しきれない。
鉄っちゃんではないけど、電車の線路が好きなのは、あんなにゆるやかなカーブなのにその角度にはたくさんの命を支えるための計算があるはずで、維持するためのメンテナンスがされていて、それが当たり前になっていることがすごい。

完璧にならないとしても、完璧を目指すことが大事なのは分かっている。完璧を目指さなければどんどん質が落ちる。
ただ、完璧でなくてはならないと感じている人はどこで折り合いをつけるんだろう。
完璧なものなんてない世界に絶望したりしないんだろうか。
完璧にならないから完璧を見つけるまで死ねない、なのかな。

たまぁに思うことなんだけど、完璧主義!っていう人の前ではもちろんこんなこと言えない。
人それぞれの価値観て面白いなーというのが結論、でいいかな。

それでもやるかやらないか

ひとつ前のエントリーは下書きにいたやつで、今書きたかったのはこれ。

映画のピングレを見て、原作を読んで、考えることがたくさんあった。

先生の小説を読む気にならなかったのは、「こんなもんか」を感じたくなかったから。
絶対感じてしまう気がしたから。

映画を先に見て、小説を読んで、率直に言えば映画の方が圧倒的に面白い。
あの構成での映画化の話を受けることは、小説として話の弱さを認める必要があったと思う。
だから、ちょっと感動した。
原作に忠実なものよりもいい作品になることを、素直に受け止めてこの内容の映画で進めるということ。
勇気というのかわからないけど、それは作品を作る上でとても誠実だと思う。
この映画化は、先生の次につながると思う。
エンターテイメントとして弱い部分、演出力、小手先の表現ではない構成力。

もちろん、原作の世界観があるからあの演出をしようと思ったんだろうし、原作あっての映画。
小説は青春時代の描写が長かったこと、女優のカノジョに愛情があったとしていたこと、そこにとても先生のピュアな根幹を感じられてとてもよかったんだ。

今はまだ先生の作品が注目してもらえる理由の大きな部分は内容ではない。
でも、こういう映画化やドラマ化を経て、やり続けることで確実に伸びていくんじゃないかなと思う。

私は昔からいろんな職業に憧れている子供だった。漫画家だったり服飾デザイナーだったり小説家だったり。
なりたい!と思ってもそのための努力とそれを外に見せる勇気がない人間だったから、何にもならずに今を過ごしてる。なりたかった全てを眩しく眺めてるだけ。眩しく眺めてるのに「こんなもんか」と思ってしまう自分が本当に嫌だ。

先生も、元々なりたかった自分にはなりきれなかった人だと思う。でもなりたい自分になれると思って活動を続けてきた。
思い込みきれる人ではないから、やり続けているなかでずっと劣等感はあると思う。
そして、新しく踏み出した小説の世界でも、劣等感はあると思う。それでもやり続けていること、それが全て。

もしかしたら、この映画を受けて筆を持てなくなるかもしれない。
でも単発でもドラマ化して、主題歌を自分の歌い出しで担当することができて、ファンも確実に増えている。
その手応えはあるはず。
「もしかしたら、自分は自分にしか出来ないアイドル像を確立できたのかもしれない」そういう自信がつくとまた輝きは変わるはず。

やりたいことが、向いてることである人は少ない。
それでもやるかやらないか。

でも、やることだけが正しいとも思わない。
やることだけが正しいと言えるのは成功した人だけで、本当に一握りの人だけ。

それでもやらなければ何も可能性は生まれない。

やれるかやれないか。

やれないからダメだというのも多分違う。
映画のなかのサリーは、美大に行っていたのに普通にスーツを着て働いていた。ただ生きること、それを選択していた。そこもわりと個人的には響いてた。

自分に折り合いをつけること。

それもやるかやらないか、やれるかやれないかの選択肢のひとつなんだと思おう。
折り合いをつけられないことで苦しんでいる人もたくさんいるし。
それもひとつの肯定の形。

客観的に自分を形容されること

あんまりないんだけど、年に何回か占いに行ってみたくなる。その時は何か悩んでるというより漠然とした「自分を誰かに客観的に形容してもらいたい」という気持ちからだと思う。
あんまり人から「○○ちゃんは○○だよね」と言われることがない、ような気がする。自分がいないときに人の話題にあがることがあるようなタイプでもないと思う。
自覚のある性格としては、突き抜けた部分が何もない中途半端の極みで、本当に面白くない。
清々しさとか、真面目さとか、熱さとか、何もない。
普通の人間だから当たり前だな、と思いながら、普通とはいえどうなんだろうとたまに思う。
第一印象がいい人になりたいなという気持ちもあるんだけど、外見のプラスのなさを取り返せるほどいい人にもなれないというか、そこまでの意識の高さがない。
自己防衛であってもピエロをやれるタイプの人は尊敬するし心配もする。

たまに占いでも行って、なんとなくぼんやりとした客観的形容をされて、なんとなくの自己定感を得たいなとか思うけど、○○な人という形容詞と肯定感が得たいだけだよな、と思うとなんとなく落ち着く。

みんな誰かに自分の形を確認したいよね。
どう見えてるか、教えてほしい。
よく見えるように努力してる人たちがたくさんいるなかで、努力もせんとのらりくらりしてるわけだから、よく見られないのも当たり前。
面白くないところも、突き抜けないところも、長所と思えば長所かもしれない。

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久しぶりにこっちのブログを見たらこんな下書きがバックアップされた。

形容されるほど突き抜けられないのは卑怯者だからだよ。
臆病より卑怯なんだ。
あわない人とぶつかりたくないし、否定されるのも嫌なんだろうと思う。
削られることが嫌だから、削られるほどはみ出ない。
でもこれはこれで生きていくための選択なんだよ。

って言い聞かせて生きてる30代。
なんとなく「それでも生きていたいタイプ」なんだなっていうのも30代になって気づいたところかもしれない。
何にもなれなくても、何も残せなくても生きていることに意義を感じてるというか、生きてるだけで面白いことがたくさんあるんだもんなぁ。現実ほど夢みたいなものはないね。2016年すごく思ってる。