さよならとありがとうと。

私の父の告別式は母の誕生日だった。
誕生日を迎えるまで我慢した、のかもしれないけど、あまりにも酷だった。
母は今でも父の話は基本的にしない。
最期まで、最期のあとまで、きっと何かの復讐でも受けている気持ちだと思う。
いろんなことに我慢して、我慢して、我慢して、結果ひとり義母の元に残されて生きている。
今は趣味があるから趣味を気兼ねなく楽しみ、友達と食事に出たりしているけど、消化しきれているのかは分からない。
タラレバを並べるのは救いがないから、今を今で処理していくのみなんだけど、それも簡単な話じゃない。
一時は本当に病んでいたし、かわいそうなことは確かだったけど、私も病んでいたから本当に母が嫌いだった。
状況を考えれば絶望しかないことは分かっていても、私は父が好きだったから、恨みを積もらせている母が嫌だった。
ぶつかってぶつかって、理解しあえたりしたわけではないけど、それぞれに思うことがあるということは分かったと思う。
親子だから分かりあえるなんてことはない。
性格が似ているのに価値観は違うから面倒だ。
一人暮らしをして、距離が取れたから少しお互い楽に付き合えてる。趣味を共有しているしたまに帰るけど、実家に泊まったことはない。
それくらいがちょうどいい。
そんな母の誕生日です。
もう還暦。
60歳になんてなりたくないと思っているだろうし、赤いものをあげるのも嫌かなと思って何もまだ用意してない。
孫を見せることは出来ないけど、お婆ちゃんにはなりたくないと言っているしまぁいいのかな。
長生きしたいとは言わない人だから、長生きしてくれとも言わないけど、穏やかに生きていてくれたらいいなと思う。

どうしても、背の高い男性が好きだ。

ジャニーズですら、身長がないと好きになれない。
現実世界でいっても、ある程度以上の身長がないと眼中に入らない。

男性においての身長というのは、女性においての顔や体型よりも大きなコンプレックス源だと思う。
170cm以下の男性の同性間においてのコンプレックス感情って、きっと女性では測りきれないもの。
不思議なもので、かつて自分が働いていた中小零細ブラック企業には背の高い男性が少なかった。新卒で入る男の子の中で、年に1人いるかどうか。主に160cm台だった。
世の中背の低い男の人が多いんだなって思っていたんだけど、夫の会社の同僚の集合写真を見て驚いた。170cm以上の人ばかりだった。
直接的に能力に結びつくことではないけれど、男性はやっぱり第一印象が身長で決まってしまうということなんだと思う。
そのことは女性には理解できないほどに男性は感じていて、きっと女性がそんなに気にしなくても?って思うくらいきっと気にすること。
以前に、サブカルこじらせ女子は背が低いという文章を書いたんだけど、きっと男性もそれに近いものがある。
男性でオシャレをこじらせるのは低身長層だ。
ジャニーズで見ても、個性派ファッションを主に身に付けるのは低身長組。
ただ、従来のジャニーズって特殊な世界で、身長がひとより高いことをなぜか良しとされない世界で、だからグループにおいて身長が1番高い人はちょっとみんな猫背になる。
そういう意味で香取信吾という人は体格の良さがコンプレックスだったんだろうなって思う。
最年少としてかわいらしさを持たなくちゃいけないっていう気持ちが、大人になってもずっと少年のようなファッションを続けさせたんじゃないかなって思ってる。

身長が低い男性が苦手なのは、そのコンプレックスをすごく感じてしまうから。
女の子のコンプレックスも難しいんだけど、それ以上に男性のコンプレックスって触れられない。
気を使われることも嫌な人が多いし、バカにされれば本当に重い怒りを持つし。
本当に気にしていない人もいるけど、基本的には少ない。
女性は小さくてかわいいと言ってもらえることはあるけど、男性は同性間でかわいいと言ってもらえるキャラクターでもない限りコンプレックスにしかならない。
ジャニーズのセンターを背負う人たちは、身長のコンプレックスが熱量になるのかもしれないな、とも思う。
普通の男性としては、自信が持てなかったとしても、ジャニーズとして、アイドルとしてなら輝ける。
普通にかっこいい男性の輝く世界じゃない。
コンプレックスを逆手に輝くことができる世界。もちろん、それだけではないんだけど。
だからこそ、私は普通にかっこよくて輝いてないっていうジャニーズが好きなんだけども・・・

女の人の心理については本当にある程度は理解できていると思う。
わりと自分自身でそれを語りたがる人も多いから、考え方捉え方の分類はしやすい。
男性は本音が基本的に出てこないものだと思ってる。
女のソレとは違うスタンストーク。
何事についても「気にしてない」とか「考えたことない」とか言う人が多いけど、言語化していないだけで、腹にあるものは女性よりももっと明確な同性間の優劣の序列だったりすると思う。
実際男性がそれを言語化すると男女ともに嫌がられるんだけども。
自分のコンプレックスに気付いてなくて、ふいにコンプレックスに触れられた時によくわかんないけど急にスイッチが入ってキレる人とかもいる。
そういう地雷としてのコンプレックスとして、身長って要素が大きくて。
そういうのがないだけでも背が高い人は気が楽だと思う。
だから見ていても楽、みたいな。
小型犬の方が自己主張が強くてキャンキャン鳴くじゃん?みたいなとこもありつつ。
女性でも男性のコンプレックスが愛おしいっていう人もいるんだと思うけど、そういう人はきっと自分自身のコンプレックスは少ないのかな。

ちなみに私の夫は身長で男としての優劣をすごく見ていて、170cm以下とか男じゃなくない?とか普通に言うような人。
でも身長があることが不利になる世界に憧れてしまって初めて、自分の身長にコンプレックスを感じている。
筋肉を大きく見せるには同じ体積でもタテに長いのはどうしても細くなってしまう。同じ筋肉量でも身長が低い方が大きく見える。
面白いもんだな、と思って眺めているけど、彼は日々コンプレックスをこじらせている。

きっと何度も書いてるような話。

クリエイティブなことをしたい人に、周りにいる人がクリエイティブなことをする才がないと伝えることはきっと野暮なんだろう。
クリエイティブなことをする才と、商売の才がなければ、それを職として生きていくのはとても難しい。
両方を持っている人はごくごく少ない。
きっとクリエイティブな才をもつ人と商才をもつ人とが組むのがうまくいきやすい。
でも、そこには考え方の違いが確実にあるから、折り合えるかどうかが難しい。
自分にはどちらがあるのか、どちらもないのか、どこかで受け止めることが求められる気がする。
センスがないとか、才能がないとかの判断は、きっと周りの人がいうことではない。
商売にしたときに、直接的に関わりのないひとからの目が1番シビアになるはず。
その反応を自分で自覚が出来なければ消化はできない。
でも、自覚しないで続けていくことで、新たな可能性が生まれる可能性はある。
運があれば。チャンスをつかめれば。
自分の才を自覚してクリエイティブなことを諦めることで、金銭的にも精神的にもダメージは少なくすむかもしれないけど、チャンスは諦めないことで生まれる。
いいか、悪いかは、わからない。

自分のクリエイティブなセンスに自信がないと悩むひとに何を言うことが1番いいのかわからない。
安心したいだけのひともいるし、本当に核心を求めているひともいる。
傍目で見えているものが全てではないだろうし、見ているひとの捉え方も違う。
でも、作るものに自信がないというのは、クリエイティブなことをしようという上では、決定的な弱さになる。
それはきっと間違いない。

自分は動けなかった。
うっすらとした自信は結果と共に消えた。
でも相手の意図を汲むという部分の自信は残った。
汲めても技術が伴わなかった。
歯向かわないから利用したいだけという意図も、面倒なことはごめんだという意図も、読めていると思う。
面倒をしてでも必要な程の才ではなくて、便利であれば活用したい程度の才。
そこを自覚できてからきっと楽になったんだろう。
楽になったのと同時に、何も吸収をしなくなった。
可能性を感じなければ成長なんてしないんだな、と実感してる。
今の職場では今まで触れてこなかった分野に少し足を踏み入れている。
まだ限界が見えてないから、わりと吸収してる気はしている。

自分の能力を自覚できないことは恥ずかしいことではない。
永遠に自覚できない人は永遠に自分のセンスを貫けるから強い。
自覚しても思う自分を演じようとする人も強いけど、その生き方は自分のHPをかなり削りながら生きることだと思う。
そこからはHPの問題で、削れても回復力に自信があったり、もとのHPが多ければそれでいいと思う。
HPを削りながら、思う自分になるために努力をする。それが健康的なのかな。
でも、もとのHPが少ない人間は折り合いつけて生きていく方がつらい時間が短くていいんじゃないかなと思う。
こんな気持ちも、おせっかいだから伝える必要はきっとない。

自分のことを考えても面白くなくて、人のことばかり考える。
本当に人のことばかり考えるから、考え甲斐のある人が好きなのかも知れないなー。
なんていう、オチもない終わり。

カジュアルな死生観的なもの。

曾祖母との別れ、友人との別れ、恩師との別れ、祖父との別れ、父との別れ、友人の父との別れ、叔母との別れ。
それなりに別れの経験値がある。
ほぼ20代半ばの段階での経験値。

30を越えてから、同世代での酒の席でも急に葬式の段取りの話や相続の話が増える。
子孫を残す気もないから、早めに終わりたいなぁとは思うけど、それは同世代の友人に惜しんでもらいたい気持ちがあるからかもしれない。
長く生きても惜しんでくれる子孫がいるわけでもないから。
ただ、別に早めに終わりたいとは思うけど、それは自ら終わろうとしたいわけではない。
自ら終わらせた人も、自ら終わらせようとして終わらせられなかった人も身近で見てる。
感覚的なものでいえば、エネルギーが消え失せたときに終わるんだろうなと思ってる。
終わらせたい、という気持ちはもうそれだけでエネルギーだと思っていて、自らのタイミングで、自らのエネルギーを出しきれる人もいるだろうけど、あんまりうまくいくものでもないんだろうなぁと思う。
8割くらい水が入ったバケツを倒しても意外と3割くらい残ってたりする。
勢いよくエネルギーを自らの手で放り出そうとしても、そんなに簡単に全て出ていきはしない。
何かのきっかけで、あるいは自然に、エネルギーがほぼゼロになったときに、あ、終わる。と思うんだろうと思う。
事故はまだ、身近なものとしての経験がないから想像がつかない。
きっと、エネルギーがあっても容器が外からの衝撃で壊される感じは壮絶なんだろうな、とは思ってる。
だから、事故は怖い。

鬱い気持ちではなくて、ニュートラルなテンションでこういうこと考えているお昼休み。

何事にも終わりがあるから尊い。
終わりのない世界にはそれこそ絶望しかない。

日常は尊い。

ぼくはアイドルとヲタクの関係が好きだ。

本当に一方的で、本当に一方的に好きになって、かわいいよって言って、応援して、お金を使うことを許される関係ってなんて素敵なんだろうってすごく思う。
普通に対等な関係でこれをやったらストーカー扱いされたり気持ち悪いって言われる。
私は基本的に人にお金を使うのが好きだ。これはすごく昔からだ。
小学校の段階で自分のお金で友達が遊ぶことにそこまで抵抗を感じていなかった。
もちろんバレて親に超怒られたし、もうお金出せないって言ったら、じゃぁいいやって遊ばなくなる子もいたし、逆にちょっとおごってくれる奴がいたりもした。
これ前者は女の子で、後者が男の子だったのが割と面白い。
自分のお金だけど、みんな楽しいならいいじゃんって思ってた部分はかなりある。
そうしなきゃ遊んでくれないって思ってたのもあるけど。
人が喜ぶプレゼントとかを考えたりするのも好きだ。
特に女の子には毎回会うたびに何かをあげたいくらいプレゼントを考えるのが好きだ。
好きなものがわかりやすいし、好みにあうものをプレゼントできたらすごく喜んでもらえるし、消耗品ならまずそんなに困ることはない。
自分に湯水のように使えるお金があれば、友達に会う時に毎回何かを持っていくだろう。
でも、もちろんそんなこと友達との関係でしてたら相手はお返しを考えなきゃいけないってなるから迷惑になるのはわかってるからしない。
だけどアイドルとヲタクの関係ならそれも問題がない。
一方通行しかないから。
重いものを毎回渡すわけじゃないし、本当に些細なものだったり消えモノだったり。
しゃべるのが苦手だから、話のネタに渡す部分も大きいんだけど、喜んでくれたら嬉しいから渡す。
多分毎回琴線に触れるものを渡せているわけじゃないけど、割とそんなに外してもいないはず。
一方通行だから相手はお返しを考える必要もないし、少ししゃべる時間があればそれでこちらも満足。
そりゃ私信がもらえたら嬉しいけど、それは好みに合うものをあげられた満足感。
たまに私信てわかると凹む的な話を聞いたりするとなんで?って思う。
V系のヲタクの時代も、周りで「プレゼントしたアクセサリーを雑誌の表紙でつけてくれてる~」とか「今回のツアーの衣装にしてくれてる~」とかがわりと当たり前だったので、私信に対して嫌悪感ってないしヲタク相手の商売の当り前みたいな気持ち。

ヲタクヲタクし始めてからの方が本当に気持ちとして健全。
一方通行って気持ちがすごく楽だ。
ヲタクはヲタクだし、対象が表舞台から消えたらそこで絶対的に関係は終わる。
自分が何もしなければ相手から何かがあるってことはないし、そこに何か無駄に期待をする必要はないし。
飽きたり嫌になれば自分が相手のことを遮断すればそれでも終わる。
なんて楽な関係なんだろう。

自分の場合、ジャニーズに対して、というか男性に対してはちょっと違う。
基本的に男の人にそういうこと(直接的にプレゼントとか)したいと思わない。
喜ぶものがわからないし、喜んでくれる光景が浮かばないのもあるけど、男女の関係とかになるとなんか違うものになるし。
モノより現金で痛い目を見てる部分があるかもしれないけど…
男の人ってあんまりモノで満たされる感覚ないんだろうなぁっていうのが印象。
だから世の中に物凄い量の性的サービスを商売にしたものがあふれてるんだと思う。

本当はもっと自分を飾るものにお金を使えばいいんだろうけど、自分を飾ることに価値を感じないからしょうがない。
それよりはかわいい子がやったー!とか嬉しい!って反応してくれる方がよっぽど満足感を得られる。
なんだろうなぁ、自分にお金かけても目の粗いザルに高価なもの流し込んでる気持ちになる感じかなぁ。
最低限は人を不快にさせないように、場に恥じないように、というのは気を付けるけど。
「若く見える=安っぽい服を着ている」という言葉はちゃんと受け止めなきゃいけない。
別に落ちもまとめもないんだけど、そんな感じ。です。

「ヲタクをするのは楽しいです!」

自撮りは何を写すのかな

ふと。

小さい頃から写真を撮る文化がない。撮るというか撮られる文化。
写真も撮らない家庭だったから、ビデオなんてもってのほか。
日常を撮られて育つということは、自分の振る舞いに対して客観性が育つのかな。
などと思ったりした。
どんなに地下でもアイドルを希望する女の子が爆発的に増えてるのも、みんなアイドル的な振る舞いを小さな頃から親のカメラに向かってしているからだったりするのかな。
アイドルについてどうこう言いたいわけじゃなくて、己の動きに対して客観視できるのは大事な気がする。
普段アイドルとの接触でしか写真を撮らなくて、仕上がったものについて、思ってたんと違うってことは多い。
それ以上に接触中の自分を友達が撮ってくれた写真を見て愕然としてしまった。
自分が感じてるより人との距離が遠くて腰が引けていて、ひどく不格好。
私が撮った友達はナチュラルに腕に手を添えてにっこりと堂々とコミュニケーションをとっている。
これがアイドル(相手レスラーだけど)との接触じゃなくて、日常だったとしてもきっとこんな感じなんじゃないだろうか。
意識的に人との距離感は近くなりすぎないようにしてるんだけど、自分が他人を不快にさせないようにとっている距離感は他人からすると不快に感じる距離かもしれない。
仲良くなりたくないと思わせてる可能性を考えてしまわなくはない。
日常もだけど、あんな挙動不審感が全面的に出てると仕事でもよくないよなぁと思う。
こいつに頼んで大丈夫かよ、と思わせるだろう。
実際大体の場面において自信ないし。
客観的に自分を見ることを意識しなきゃ。
などと思うと同時に、自撮りって究極に客観性のない世界で、主観に基づいて撮られたものということなのかな、と思ってみたりする。
自撮りの撮り方は興味深い。
他撮りと自撮りで全然違う顔の子も多い。
そこのギャップの大きさは客観性と主観性のギャップになるのかな。
そんなことを考えてみたけれども、出来ることなら1日中自分を撮ってみたい。撮られてみたい。
多分死にたくなるけど。
実際撮られたくないし、そんなの無理だけど、撮られているつもりで生活をすると自堕落さは減るのかな。
多分死にたくなるけど。
本当はどうにかして猫になりたいんだけどなー。
猫になれないからなー。
もう30年も生きててこんなに外見に対して客観性がないなんて、本当に恥ずかしい。
しかし猫になりたい。

センスがないからしにたいと思うくらいにはセンスがない。

もう、ものを作る方から離れたいなと思う気持ちが大きくて、デザイナーの求人に応募するけど応募するだけつらい。
自分の限界はわかっていて、圧倒的にセンスがない。
作り出すもののセンスがない。
ある程度の形は作れてもそれ以上のものは作れない。
デザインに関わっているものとして下の中だと思う。
最下層ではないと信じているけど、ダサい層。
知らん会社でデザインの仕事やってたっていうても、ダサいもんしか作ってきてなくて、求められたものを作ってきたとしても、ダサいもんしか作ってきてない。
もともと独創性とかない人間で、独創性を考えなくては見つけられないし、考えても見つけられないし、考えついたものがオンリーワンである自信はない。
そもそも意識が低い。それでもデザインという仕事にすがり付こうという意思もない。
自分がなにか面白いものを作るより、面白いものを作っている人に投資する方が面白い。
自分からみて面白くないものを作っている人もたくさんいるけど、それでもその作っている人は面白いと思っているはず。
それができないならもう誰も面白いと思えるものは作れない。
面白いという物差しじゃなくてもいい。
私が作れるのはある程度の無難なものだ。 ある程度以上のものは出来ない。
たくさんの人をみて思う。
自分からみてすごいと思う人も何も面白いことを仕事にしていなかったりする。
それが現実であって、そういう人より才のない自分がなにか出来るかといえばできるわけがない。
できるかもしれないと言えない時点で決まってしまう。
そこの負荷に自分で勝てない。
本当にだらしないしクソだ。
面白いことをできない。
自分が思う面白いことを自分が面白くやりきれない。
いわゆるプロとして何かしてる人じゃない人で面白い人はたくさんいて、そういう人が発信しやすい時代になって思うことはいろいろあって。
プロとして何かしていることにプライドを持つことも大事だと思うけど、プロとしてじゃなく発信している人より価値のあるものを生み出せなければプロとして活動するのは評価されなくても当然だろうって。
そんなこと考えない人の方が自分のやりたいことをやるだけだ!ってやれるから続くんじゃないだろうか。

そんなことを思う無職の日々、です。

とうとう個人事業の方は廃業しました。
廃業届って本当にあっさり終わるから面白い。