きっと何度も書いてるような話。

クリエイティブなことをしたい人に、周りにいる人がクリエイティブなことをする才がないと伝えることはきっと野暮なんだろう。
クリエイティブなことをする才と、商売の才がなければ、それを職として生きていくのはとても難しい。
両方を持っている人はごくごく少ない。
きっとクリエイティブな才をもつ人と商才をもつ人とが組むのがうまくいきやすい。
でも、そこには考え方の違いが確実にあるから、折り合えるかどうかが難しい。
自分にはどちらがあるのか、どちらもないのか、どこかで受け止めることが求められる気がする。
センスがないとか、才能がないとかの判断は、きっと周りの人がいうことではない。
商売にしたときに、直接的に関わりのないひとからの目が1番シビアになるはず。
その反応を自分で自覚が出来なければ消化はできない。
でも、自覚しないで続けていくことで、新たな可能性が生まれる可能性はある。
運があれば。チャンスをつかめれば。
自分の才を自覚してクリエイティブなことを諦めることで、金銭的にも精神的にもダメージは少なくすむかもしれないけど、チャンスは諦めないことで生まれる。
いいか、悪いかは、わからない。

自分のクリエイティブなセンスに自信がないと悩むひとに何を言うことが1番いいのかわからない。
安心したいだけのひともいるし、本当に核心を求めているひともいる。
傍目で見えているものが全てではないだろうし、見ているひとの捉え方も違う。
でも、作るものに自信がないというのは、クリエイティブなことをしようという上では、決定的な弱さになる。
それはきっと間違いない。

自分は動けなかった。
うっすらとした自信は結果と共に消えた。
でも相手の意図を汲むという部分の自信は残った。
汲めても技術が伴わなかった。
歯向かわないから利用したいだけという意図も、面倒なことはごめんだという意図も、読めていると思う。
面倒をしてでも必要な程の才ではなくて、便利であれば活用したい程度の才。
そこを自覚できてからきっと楽になったんだろう。
楽になったのと同時に、何も吸収をしなくなった。
可能性を感じなければ成長なんてしないんだな、と実感してる。
今の職場では今まで触れてこなかった分野に少し足を踏み入れている。
まだ限界が見えてないから、わりと吸収してる気はしている。

自分の能力を自覚できないことは恥ずかしいことではない。
永遠に自覚できない人は永遠に自分のセンスを貫けるから強い。
自覚しても思う自分を演じようとする人も強いけど、その生き方は自分のHPをかなり削りながら生きることだと思う。
そこからはHPの問題で、削れても回復力に自信があったり、もとのHPが多ければそれでいいと思う。
HPを削りながら、思う自分になるために努力をする。それが健康的なのかな。
でも、もとのHPが少ない人間は折り合いつけて生きていく方がつらい時間が短くていいんじゃないかなと思う。
こんな気持ちも、おせっかいだから伝える必要はきっとない。

自分のことを考えても面白くなくて、人のことばかり考える。
本当に人のことばかり考えるから、考え甲斐のある人が好きなのかも知れないなー。
なんていう、オチもない終わり。