心地がよい場所があることは幸せだと思う。

このブログがとても、心地よい。
アクセス数は更新をしても1日10~20程度。
そのアクセス数なのにスターもらえるってすごいな!って思うし、なんとなく共感してくれる人しか見てないことが心地よい。

自分の外見は好きじゃないし、好きになれるように磨くこともしていないから客観的に見つめる気になれないけど、自分の思考は見つめ直すのが楽しい。
このブログはアクセスの半分は自分かな?と思うくらいよく見直してる。

たくさんの人の前で大きな声で喋ることが好きじゃない。出来ることなら顔の見える範囲で、声を張り上げなくても聞こえる範囲で表情を見ながら話したい。

そんなこと思ってるけど、大きな声で堂々と話せる人が羨ましいのも確か。
いろんなことを気にしなくなっているけど、それでも怖いと同時に、影響力を持てる人が羨ましい。

好きなものについて、大きな声で魅力を訴えたい気持ちはあるんだけど、そうされることで冷める人がいるのもわかっている。
好きなものを楽しく好きでいるための距離感を意識しなくちゃと思う。
自分の思い通りにならないことをふざけるなとは言いたくない。
ただでも、好きなものに関わる人には誠意を感じたいと思う。
グレーのなかでも、できるだけ白に近いところを感じさせてほしい。

たまに、15年以上ネットにいて、大きく叩かれたりした記憶がないことは幸せだなと思う。
実は叩かれてたのかもしれないけど、気づいてないなら幸せだ。
インターネットこそ大きな声が影響力が強いし、同時に大きな声は無条件に一定量叩かれる。
大きな声じゃなきゃ喋る意味はないなんて思わないし、適正なボリュームで、ある程度理解しあえる距離感でおしゃべりを続けたい。

好きなものを好きと言いたいし、微妙だなと思うものは微妙だなと言いたい。

流行りのフリマアプリをはじめました。

新しいサービスに対してアトノリなタイプなので、やっとこ始めたんですが、面白い。
出品されているものを眺めるだけでとても楽しい。
写真の撮り方、値段のつけ方、品名の書き方、人の「手放したいモノ」の価値観が秒単位で溢れてて本当に面白い。
自分の生活では触れない価値観にたくさん触れられるってことだけでも、とてもいい暇潰しになる。
どうせ売るならちょっとでも高くという思考で謎なくらい高値で出してる人もいるし、送料でマイナスなのでは?っていう人もいる。
そしてそれなりのペースで入るアヤシゲなアイテム。ダイエットサプリとか。

出品してみると、秒単位で売れるものも、数日音沙汰なくポンと売れるものもある。
需要ないかなぁと思ったものでも売れることがあるから面白い。

かんじゃにさん辺りは販売されていたグッズにはさほど需要はないけど、手作りされたグッズには需要があるように見えて面白い。ある程度以上の規模になると、そういう現象が起きる気がする。公式グッズや写真が当たり前になると、ファンの愛が感じられるものをもつのがイイってなるのかな?

需要がありそうなCDやらなんやらを売ろうとしたときに断念したのは名前入りのサインの入ったもの。本でもCDでもホイホイ手放されたくない人は、手間でも購入者の名前入りのサインをいれる方がいいのかもね。

オチもなにもないんだけど、年内にでもアプリの悪用が問題になってシステムがどんどん変えられたりしそうだし、そういう流れも含めて興味深く眺めていたいなーという気持ち。

完璧主義者の完璧の落としどころが気になる。

私は完璧主義とは真逆の人間で、むしろ物事を白黒に割りきることも何かキッチリ収めたりキッチリドアを閉めることもあまり好きじゃない。実家にいるときから部屋のドアを中途半端に閉めること(ガチャンと言わせないこと)に対して気持ち悪がられる。

完璧なものを求めている人、白か黒か、0か100か、それでしかものを見れない!そうじゃないと気持ちが悪い人がいる。
その人にとっての境界が気になる。
この世の中のどこも完璧なものなんてないと思ってしまうから。
学生時代に色の勉強をして、製造業に就いて、完璧なもの、完全なもの、絶対的なものなんてないと気づいてしまった。
自然界には正円も直角も直線もない。人の手で作ったものは人の手による精度以上の物にはならない。
自分が見ている全てのもの色は光の反射によるものなわけで、光源が変われば色は変わる。光源の角度が変わっても強さが変わっても全て変わる。人間の個体それぞれの感覚も違う。その上で感覚的補正がなければ全ての色合いはその時にしか実在しないはず。
色の勉強をして、いかに感覚的補正によって色を見ているかということに衝撃を受けた。自分が見ている色を他の人の感覚でどう見えているかは確かめようがない。
製造業に就いて、世の中の工業製品は3~8%程度の不良が出ることを予め計算に入れて原価を出すことを知る。
同じ工場で作るものでも、朝の動き出し時と1日稼動した夜では仕上がりが違う。夏と冬でも全然違う。
コンピューターでも同じだと思う。バグを永久にゼロにすることはできないはず。
自分たちが幼少から使ってきた定規だって、プラスチック製のモノなら気温で結構サイズが伸縮するし印刷の精度なんて大したものではない。
モノを知れば知るほど、完璧なものってなんだろうって思う。
でも、限りなく完璧なものを求めなくてはいけないのは確かにある。
医療にまつわる行為、用具、移動手段に関わる行為、乗り物、レール。
自分にはそのものに命が直接的にかかわるモノを作ったり、その行為をする人が請け負うプレッシャーが想像しきれない。
鉄っちゃんではないけど、電車の線路が好きなのは、あんなにゆるやかなカーブなのにその角度にはたくさんの命を支えるための計算があるはずで、維持するためのメンテナンスがされていて、それが当たり前になっていることがすごい。

完璧にならないとしても、完璧を目指すことが大事なのは分かっている。完璧を目指さなければどんどん質が落ちる。
ただ、完璧でなくてはならないと感じている人はどこで折り合いをつけるんだろう。
完璧なものなんてない世界に絶望したりしないんだろうか。
完璧にならないから完璧を見つけるまで死ねない、なのかな。

たまぁに思うことなんだけど、完璧主義!っていう人の前ではもちろんこんなこと言えない。
人それぞれの価値観て面白いなーというのが結論、でいいかな。

それでもやるかやらないか

ひとつ前のエントリーは下書きにいたやつで、今書きたかったのはこれ。

映画のピングレを見て、原作を読んで、考えることがたくさんあった。

先生の小説を読む気にならなかったのは、「こんなもんか」を感じたくなかったから。
絶対感じてしまう気がしたから。

映画を先に見て、小説を読んで、率直に言えば映画の方が圧倒的に面白い。
あの構成での映画化の話を受けることは、小説として話の弱さを認める必要があったと思う。
だから、ちょっと感動した。
原作に忠実なものよりもいい作品になることを、素直に受け止めてこの内容の映画で進めるということ。
勇気というのかわからないけど、それは作品を作る上でとても誠実だと思う。
この映画化は、先生の次につながると思う。
エンターテイメントとして弱い部分、演出力、小手先の表現ではない構成力。

もちろん、原作の世界観があるからあの演出をしようと思ったんだろうし、原作あっての映画。
小説は青春時代の描写が長かったこと、女優のカノジョに愛情があったとしていたこと、そこにとても先生のピュアな根幹を感じられてとてもよかったんだ。

今はまだ先生の作品が注目してもらえる理由の大きな部分は内容ではない。
でも、こういう映画化やドラマ化を経て、やり続けることで確実に伸びていくんじゃないかなと思う。

私は昔からいろんな職業に憧れている子供だった。漫画家だったり服飾デザイナーだったり小説家だったり。
なりたい!と思ってもそのための努力とそれを外に見せる勇気がない人間だったから、何にもならずに今を過ごしてる。なりたかった全てを眩しく眺めてるだけ。眩しく眺めてるのに「こんなもんか」と思ってしまう自分が本当に嫌だ。

先生も、元々なりたかった自分にはなりきれなかった人だと思う。でもなりたい自分になれると思って活動を続けてきた。
思い込みきれる人ではないから、やり続けているなかでずっと劣等感はあると思う。
そして、新しく踏み出した小説の世界でも、劣等感はあると思う。それでもやり続けていること、それが全て。

もしかしたら、この映画を受けて筆を持てなくなるかもしれない。
でも単発でもドラマ化して、主題歌を自分の歌い出しで担当することができて、ファンも確実に増えている。
その手応えはあるはず。
「もしかしたら、自分は自分にしか出来ないアイドル像を確立できたのかもしれない」そういう自信がつくとまた輝きは変わるはず。

やりたいことが、向いてることである人は少ない。
それでもやるかやらないか。

でも、やることだけが正しいとも思わない。
やることだけが正しいと言えるのは成功した人だけで、本当に一握りの人だけ。

それでもやらなければ何も可能性は生まれない。

やれるかやれないか。

やれないからダメだというのも多分違う。
映画のなかのサリーは、美大に行っていたのに普通にスーツを着て働いていた。ただ生きること、それを選択していた。そこもわりと個人的には響いてた。

自分に折り合いをつけること。

それもやるかやらないか、やれるかやれないかの選択肢のひとつなんだと思おう。
折り合いをつけられないことで苦しんでいる人もたくさんいるし。
それもひとつの肯定の形。

客観的に自分を形容されること

あんまりないんだけど、年に何回か占いに行ってみたくなる。その時は何か悩んでるというより漠然とした「自分を誰かに客観的に形容してもらいたい」という気持ちからだと思う。
あんまり人から「○○ちゃんは○○だよね」と言われることがない、ような気がする。自分がいないときに人の話題にあがることがあるようなタイプでもないと思う。
自覚のある性格としては、突き抜けた部分が何もない中途半端の極みで、本当に面白くない。
清々しさとか、真面目さとか、熱さとか、何もない。
普通の人間だから当たり前だな、と思いながら、普通とはいえどうなんだろうとたまに思う。
第一印象がいい人になりたいなという気持ちもあるんだけど、外見のプラスのなさを取り返せるほどいい人にもなれないというか、そこまでの意識の高さがない。
自己防衛であってもピエロをやれるタイプの人は尊敬するし心配もする。

たまに占いでも行って、なんとなくぼんやりとした客観的形容をされて、なんとなくの自己定感を得たいなとか思うけど、○○な人という形容詞と肯定感が得たいだけだよな、と思うとなんとなく落ち着く。

みんな誰かに自分の形を確認したいよね。
どう見えてるか、教えてほしい。
よく見えるように努力してる人たちがたくさんいるなかで、努力もせんとのらりくらりしてるわけだから、よく見られないのも当たり前。
面白くないところも、突き抜けないところも、長所と思えば長所かもしれない。

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久しぶりにこっちのブログを見たらこんな下書きがバックアップされた。

形容されるほど突き抜けられないのは卑怯者だからだよ。
臆病より卑怯なんだ。
あわない人とぶつかりたくないし、否定されるのも嫌なんだろうと思う。
削られることが嫌だから、削られるほどはみ出ない。
でもこれはこれで生きていくための選択なんだよ。

って言い聞かせて生きてる30代。
なんとなく「それでも生きていたいタイプ」なんだなっていうのも30代になって気づいたところかもしれない。
何にもなれなくても、何も残せなくても生きていることに意義を感じてるというか、生きてるだけで面白いことがたくさんあるんだもんなぁ。現実ほど夢みたいなものはないね。2016年すごく思ってる。

うちの子は猫だから親ばかになれる。

昨夜、猫に腕枕をしながら寝ていてふとそんなことを思った。
お兄ちゃんだった子は冬場は足元に入って寝てたけど、今の坊ちゃんはいつも私か夫の腕の中で朝まで寝てる。
少なくとも2匹ともずっと寝室で一緒に寝ていて、枕元で寝ているか、足元か、腕の中で寝ている。
だからこそ子供って意識が強いんだろうなと思う。

本当にかわいい。うちの子本当にかわいい。
アタマいいんだか悪いんだかわからないけど、いろんなとこ勝手に開けて入っちゃうし、いろいろ食べちゃうし、噛むし、蹴るし、掘るし、だけどかわいい。
「うちの子、かわいいんですよ」って心の底から思って誰にでも話が出来ちゃう。

でも、これは猫だからなんだろうなって。
実際に自分の子どもだったら、そうは言えないんだろうなぁって思う。
欠点が全て自分の生き写しのように感じるだろうし、いいところを素直にいいと言うこともできないかもしれない。
人から褒められた時に「いやいや、ホントは○○で。困っちゃうんですよ。」って言ってしまう気もする。
そういうことをしては子供の親への感情を怖がって、お互いに疑心暗鬼を深める。
多分そうなる。
自分から産まれた人間を育てるって、私には無理だ。

子供は猫。
そうすることで成り立つんだわ。夫婦としても。

いいことじゃないんだろうけど、それも選択肢でしょう。
お互いに健やかに生きることが目標だから。

やっぱり心音を感じて、体温を感じられる存在が身近にいるということは、心が安らぐ。
ふわふわして、柔らかくて、かわいい。
猫と生活していて、本当に幸せだなぁって思う。

ただそれだけなんですけど、本当にかわいい子に出会えて幸せ者だ。

性格の悪い男しか好きになれない話。

身長の高い男しか好きなれないのと同じで、性格の悪い男しか好きなれない。
ニコニコしていて、ニコニコしているその笑顔がすごくかわいい人が好き。
それと同時に人をすごく見下してるような人しか惹かれない。
世の中には、本当にきっといい人はいて、実際身の回りにもいる、はず。
ヲタクとして趣味の場で会う人はいい人だな!っていう人が結構多い。
でも、それもヲタクとしての面しか知らないから、トータルはそうでもない人も多分多い、はず。

なんでこんなに性格悪い人が好きなんだろうなぁって思うんだけど、基本的には自分の性格が悪いからだと思う。
性格が悪いから性格が悪い人の思考回路がすごくよくわかる。
えぇかっこしぃで公共の場的な所では偽善的なこという男の性格の悪さたるや、と思って見てしまうから。
ビッグマウスとかじゃなくて、正論とか一般論とかをいいがちで、ちょっと謙虚な男ほどプライドが高くてナルシシズムがあふれている。
としか見れてない。
そういう奴が1番ズルいえぇかっこしぃ。
真っ当にかっこいい男になろうとする人の方が清々しいナルシスト。
「かっこつけたりとかできないしw」とか言ってる男の方が、プライドが高い。
そういう男の垣間見えるプライドの高さ見てニヤニヤするのが心底好きみたい。
もうこれだけで、自分は心底性格悪いのがよくわかる。ドン引く。

女の人にやさしい男の人の腹の底も見えないと思うし、営業マンとか心にもないことをスラスラと並べ立てられる人種だから、売り上げトップの営業マンみたいな人のことなんて信用できないわ、って社会人になってから思ったし、だけど、そういう建前トークも出来ない人の方がやっぱり問題があるんだよね。

いわゆるイイ女も男の前では心にもないことを言える人なわけだし、男もそれがいいわけで、それと同じでうまく心にもないことを言って女の人の気持ちをアゲることができる人がやっぱりイイ男なんじゃないかな、なんて気もする。

あと、いい人を見ていると疲れてしまう部分がある。
あぁココロを削りながら生きてるなって。
女の子よりも男の人の方がそこの部分がなんかもっと削ってる感じがするからしんどい。
女の子の場合、基本的には自分でちゃんと補完が出来る人の方が多い気がする。
ちゃんと削ってる意識がある人の方が多い。心を削ってるから自分にご褒美、をする。
男の人の場合、無自覚な人が多いから削って削って気づいたときには深刻なメンヘラ化をしている気がする。
メンヘラとして鬱々とするか、無意識な苛立ちを蓄えて爆発をするか。
そこで「心を削ってるのね、大変ね」なんて寄り添ったらいくらでも共依存にまっしぐら、みたいな。
もちろん印象だけど。

基本的に、自分が下からしか男を見れないという感覚がある。
それは純粋に視覚的なことでもあるんだけど、男の方が上から物を見ているのが当たり前。
男に上から見られるのが当たり前。だから、男にとっての「高嶺の花」という存在にはなれない。
そんな感覚がある。
こんな女に下からくる男は信用できないし、難がある人が多い、という感覚。メンヘラホイホイだから。
自分という存在に自信や誇りを持っている人はその身長としての感覚もないのかもしれないけど。
でも、常に上から人に見られるという感覚は、きっと体感している人しかわからない。
私は同じ目線の高さになるのは好まない。
至近距離で同じ目線の高さになってまじまじと見られたくない。
だから背の高い性格の悪い男になじられるくらいの方が好きなんだと思う。
対等な感じで、なおかつ女性として扱われるっていう経験がないから、どういう感じかが想像つかない。
でもそういう人もきっといるんだろうし、そういう関係を築ける人は素晴らしいな、って思う。

遠巻きで眺める性格の悪い背の高いイケメン、おーくらただよし、最高。