女の子として生きること、女として生きること。

「女の子」として生きる生き方とは、己の中にある少女感に基づいて、
かわいいもの、胸ときめくものを身につけて生きることだと思っていて、
対して、「女」として生きる生き方とは、己の女としての価値を高める
ものを身につけて生きることだと思っています。

ものすごく簡単な振り分けをするなら、千秋は前者、紀香は後者的な感覚。
失恋ショコラティエでいえば、サエコさんは女としてしか生きられない。
その生き方しか分からない人なんだと思う。
だから彼女からすれば、爽太と共に、対等に働く薫子さんが羨ましい。
当初の薫子さんからしたら、サエコさんはおぞましい。
薫子さんは女としての在り方が掴めてない人。
女の子として生きてるって感じでもないけど。

私の母はとにかく女として生きている女性に対しての嫌悪感が強い人でした。
世の男性が評する女性をことごとく嫌悪し、そういう女性に鼻の下を伸ばす
男性をものすごく嫌悪していました。
母の女という生き物に対しての嫌悪感は、父が外で女と楽しんでいることから
きていたというのは、父が亡くなってから分かったことではあります。
そのうえで、私の中にある女の部分に対しても嫌悪感をもっていたと思います。
「好きな人いないの?」なんてありがちな会話が出たことはありません。
ロリータ服はOKでもギャル服はNO。
過剰な女の子感は許しても、適度な女感はいい顔をしない。
ある程度の年齢になっても、派手な柄や濃い色の下着類も苦々しい顔で
「品がないからやめなさい」と言われたし、パットが入っているブラについては
「それ以上大きく見せる必要ないでしょ。バカっぽく見えるだけじゃない。」
と言って、全て母が着用する前に抜いて捨てていました。

そういう環境の中で、母の女性蔑視が異常だと思いつつ、
周囲が一斉に女の子から女としての生活を歩みだしても、
女としての在り方が分からないまま20代を迎えることになります。
大学に入ってから、周辺の人間関係の中に男の人が出てきても、
女として扱われることに慣れないままで、女として振る舞う方法が分からない。
そうじゃない人としかうまくコミュニケーション取れない時期が長かった。
とはいえ、なんだかんだとお付き合いする相手ができたときに、
初めて自分も女として価値があるのか!と感じましたが、
多分自分なりに女として20代を生きてきた結果残ったものは
ボロボロのプライドと沢山の金銭的な損出。
世に言うダメンズウォーカー、あるいはメンヘラホイホイ。
それでも既婚でいるのは、また女として生きることが求められる独身女性という
フィールドに戻りたくないから。
実態がどうであれ、既婚でいればそれだけであのフィールドからは抜けられる。
そう思ってからはずいぶん気が楽になりました。
そして、既婚になってから青春時代のバンドに触れたり、アイドルの現場にまた
足を運ぶようになって、女ではなくて女の子の世界に生きるのがいいなって、
思うようになった結果が現在です。

かわいいもの、メルヘンなもの、ファンタジーなもの、少女感のあるもの。
ひどく滑稽にならない程度に、その中で生きていきたい。
女として魅力的に見える服、魅力的に見えるメイク、魅力的に見える髪型とか、
もしかしたら別の方向性で存在しているのかもしれないけど、
もはやそういうものを手にしてそのようなフィールドに降り立ちたくない。
こういう言い方をすると、すごくネガティブなんだけど、実際のところは、
女から解放されて非常に心軽く楽しく生きている時間が増えたんですよ。
ただ手放したつもりでも、周囲の話に対していろいろ思ってしまうことはあり、
たまにそれでいいの?と自問はするけれど、これ以上の最善の道は考えられない。

まぁまた何かがあって、独身というフィールドに降り立ったとしても、
そのときはきっと無理して女になろうとはしないだろうと思いたい。思いたい。