男のいう「ブス」と女のいう「ブス」と、ブスの弁明。

わりと女の人のいうブスの方が怖いです。
男の人の場合、余程のことがない限り外見のみでの判断で、
「美人」「かわいい」「普通」「ブス」「ブサイク」
くらいの判断な気がしています。
かわいいという部分についてはかなり「雰囲気かわいい」も
含まれていると思います。
普通の範囲であればまぁそんなに面と向かってブスとは言われません。
普通とブスの境界に対しても、口に出してまでブスということは
あまりないと思います。
また、好みとしてはかなりいろいろな好みがあるため、
いわゆるブスの範囲でも、ニッチな需要がある場合があります。

女の人のいうブスについては、多くの場合内面を反映させて
判断しているようで、男の人のいうブスとはニュアンスが違うのです。
「己の外見を過大評価し努力を怠ってる上で他人と比較し、
 またそれを人に対しひけらかしている人」
というのが主な基準な気がしています。
とても難しい。
少なくとも私は己の外見に対して努力を怠っている自覚があり、
それについては近親者からの指摘を20年以上受け続けているため、
その言葉が発せられるたびに削られます。
削られるのが分かっているのに努力を怠っているので、
それは自分の責任であり、人を批難する筋などないのです。

しかし、ブスが努力をすることを笑う層もいます。
化粧にしても、ファッションにしても、
ブスが何やっても、という話になると努力すら怖いのです。
センスよくこなすことで、ブスから普通になることができるとしても、
多くのブス層にはそのセンスがないのです。
努力をしたのにセンスがなくて仕上がりがおかしい。
流行のメイクをして、流行のファッションを着ていても何かおかしい人たちは、
そもそもうまくやれるセンスがないのです。
私も流行を自分にあう形に落とし込むセンスがないという自覚があります。
特にメイクは何をやってもブスにしかなる気がしません。
流行のファッション、憧れのファッションを手にしてみることもありますが、
センスよく似合う仕上がりにできない。

「ブスはブスを批難する話をされても気がつかないからブスだ」
「ブスはセンスがないことに気付いていないからブスだ」
という理論もあるでしょう。

ブスを自覚して、センスのなさを自覚する。
そうするとどうなるか。
自分と向き合って生きていくのが何よりも苦痛になります。
センスがないブスに生きる資格などないのか、と思います。
生きていく上で、その自覚をしてしまうことはとても重いものを
抱えて生きていく覚悟をするということになるのです。

そんな時に「そんな君でも好きだよ」と心になく口先だけででも
言ってくれるような人がいれば、お金を払ってでも一緒にいるでしょう。
体を売ることで求めてくれる人がいるならそれでも嬉しいでしょう。
どうにか誰かが肯定してくれるならそうなる気がします。
そこにあるのが虚構だと気付いていても。

あるいは自分のことは二の次にして、趣味に没頭をする。
美しい人を見る、かわいい人を見る、かっこいい人を見る。
お金を払い、場を共に盛り上げることで、喜んでくれる人がいる。
それはとても幸せなことです。
場にそぐわないようなことをしないように、迷惑をかけないように
気をつけるだけで、そこにいても誰も文句は言わないでしょう。
それだけでも、生きてて良かったと感じることができるのです。
輝いている人の人生を我々の為に割いて素敵な時間を与えてくれる。
成長や挫折や努力を見せてくれる。
アイドルという芸能は素晴らしくありがたいエンターテイメントです。

私は前者でそれなりの残念な結果を得ることになったので、
それも向いていないと思いました。
だから今は後者で生きています。
何より後者には性別が必要ないのです。

性を捨てたいという話については、また別で。